6.16.2013

KさんのKは弁慶の慶

中高と、概して「先輩」と敬称づけられるグルーピーとは、さして折り合いがよくなかった。
6年間血を血で洗い続け、もう二度と部活動的な活動はしないと誓った17の春、何を血迷ったか、とらんでもいい体育の授業で剣道を選択したわたしは、そこで生まれて初めて本物の「先輩」と出遇った。

Kさんは、少年のような女性だった。あの、信長のお付きのなんだっけ、あ、蘭丸、そう、蘭丸のイメージそのものの、つくねんとした小作りな美少年といった風貌であった。
背は150cmあるかないか、いつも同じような動きやすさ重視の地味な服装をしており、短く切り込んだ直毛はわたしの二倍はあろう大きな瞳と同じように黒々と煌めいていた。

Kさんは一浪しており、学年は2つ上、年は3つ上だった。これには驚いた。
Kさんは、わたしが高校時代の癖が抜けきらず「先輩」と呼ぶのを厭がった。
Kさんは敬語を使われるのを厭がった。
Kさんは携帯電話を持っていなかった。
Kさんは教授のお伴でアメリカのグレートなんちゃらやらオーストラリアのこれまたグレートなんとかやらを頻繁に行き来しており、聞けば文化人類学というのを勉強しておられるそうな。

当時今より100倍繊細だったわたしは、毎週毎週剣道の後、茹蛸のように湯気を出しながら生協で98円のリプトンのマスカットティー(時々ピーチ時々レモン)を一気に飲み下しつつ、「人生とは何か」というこの世で一番不毛な問いを、紅茶臭い息でKさんに
ぶちまけていた。

この甚だ迷惑極まりない後輩からの問答に、Kさんはよく透る柔らかい京都弁で、いつも真剣に、的確に応えてくれはった。情けない事にその回答の詳細な内容は記憶していないのだが、ただひたすら、Kさんの口から出る報えは常にわたしの柔い心の琴線をビンビンに揺らしまくっていたことだけが、体感として残っている。

その様子があまりに大人で、あまりに悟っておられ、あまりに素敵すぎるが故、つい
「先輩はこんな、悩んで、うううううううってなってしまうことなんてないですよね。」
と呟いたわたしに、Kさんは、生協の細い細いストローの中にビチビチに詰まって身悶えもできひんアロエ果肉を見つめながら、いつもと同じように穏やかで淡々とした様子で云った。
「あんな、うち、高校3回生のとき、眼えみえなくなってん。
進学校やって、きっかけは受験のストレスとかそんなんやけど、周りと自分の違いみたいなんが浮き彫りになるやろ。したら周りの人らが何考えてんのかようわからんくなって、いろいろ考え込んで、ほんでしばらくたったら、今度は耳がよう聞こえんようなってな。」
「真っ暗なんよ。ほんまに、初めて知ったわ。そういう世界のこと。そっから引っ張りだしてくれた人が、まあ予備校の先生なんやけど、その人が文化人類学やっててな。人間を、知る学問やって。」

わたしは自分がその後何と返したかを覚えていない。

Kさんとは、一年後、剣道の授業が終わったと同時に自然とお互い忙しくなり、疎遠になってしまった。なにしろ彼女は携帯を持っていなかった。
最近、思い出したようにfacebookでKさんの名前を入力してみたが、出て来ない。なにしろ彼女はきっとそういうものをやらない人なのだ。
Kさんに会いたい。Kさんはきっと大学に残って立派な文化人類学者になってはるのやろうなと思う。そうであってほしいなと、心のどこかで思ってしまう。
なにしろKさんは永遠にわたしの憧れの先輩なのだから。
でも、何をやっていても、Kさんが幸せならなんでもいい。
ほんで、あのときKさんに丸投げしていた質問を、ようやくわたしは自分の脚で立って、考え始めましたと伝えることができたらいいのになと、思うのだ。










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